2007年02月22日

特撮映画ウルトラマンの誕生

このあいだ、世田谷区の砧(きぬた)を歩いていると、
ウルトラマンの大きな人形が現れて、ギョッとした。
あそこは、東宝に関係のある場所だったのかな。
どういうわけか、こどものころからウルトラマン系統は好きじゃなかったなあ。
なんだか、見ていて恐ろしかったからね。

ウルトラマンといえば、特撮映画の円谷英二さんだ。
円谷英二さんがどういう人だっかか調べてみると、
1901年7月に生まれて、1970年1月に亡くなっている。
ずいぶんむかしの人だったんだね。

ウィキペディアによると、『ウルトラマン』は円谷プロダクションが製作し、
1966年7月17日から1967年4月9日まで、毎週日曜日の午後7時から7時30分まで、
全39話が放送されたんだって。
ということは、ウルトラマンの放送の4年後に、円谷英二さんは亡くなったんだね。

最初のウルトラマンを特に「初代ウルトラマン」と呼ぶ場合が多い。
『帰ってきたウルトラマン』と区別するためなんだってさ。
ウルトラマンシリーズは複雑だもんな。

そうそう。
円谷英二さんは、戦後はGHQの指令で、映画界から追放された時期もあったんだね。

戦争中には国策映画を撮っていて、『海軍爆撃隊』ではじめてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影。
『ハワイ・マレー沖海戦』『加藤隼戦闘隊』『雷撃隊出動』『あの旗を撃て』
などの戦意高揚映画で、特殊な撮影法やミニチュアの使用や合成技術など、
特撮技術を駆使した。

1947年のGHQの公職追放によって東宝を追放され、
円谷特殊技術研究所を設立、大映などの映画の特撮部門を請け負うことに。
そして、ようやく1952年になって日本の主権が回復。
円谷英二さんは公職追放が解除され、東宝に戻ったらしいね。
ということは、GHQの公職追放が円谷プロを誕生させたのかな?
posted by ぺー at 22:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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